「6月23日8:35pm」

「こんな坂の上に、オシャレなレストランがあって、夜景眺めながら
食事できるなんて、素敵でしたね。」
「そういう風に、律子が着飾っているんだったら、それに見合う店で
食事しないとな。」
18になったばかりの律子が、少し大人に背伸びしたくて、シックな
スーツを着ている。普段の学校の制服や、普段着では見せてくれない
律子の魅力をさらけだしている。
「こういう店って、やはりロケハンとかで探すんですか」
「そりゃそうさ、いかに雰囲気に合わせて組み合わすかってのは、
大事だろう。」
「確かに、こんな格好なのに、連れて行かれた店が牛丼屋だったら
呆れますね。」
「ま、18,19歳ってのは大人なのか子供なのか、微妙に感じる
年頃だからな。それでも、大人の世界に踏み込む直前なんだから
そろそろ、そういう世界も覗き込んでおく必要はあるだろう。」
「それもそうね。高校卒業した後の事も真剣に考えておかないと。」
駐車場で車に向かいながら、話す二人。
普段は仕事相手としか見ていない、あの人が大きく見える。
別の世界の人のように…
「まだ、この時間か…大人に近づいているついでだから、ちょっと
背伸びした世界を覗き込ませるのもいいかな。ちょっと付き合え。」
「えっ、どこに?」
「なに、ただ黙って付いてくればいい。雰囲気だけでも味わえる
場所だから…ほら、車に乗った乗った」
プロデューサーは何気なく、助手席のドアを開けてくれた。
今夜は私にプライベートで接してくれているのが嬉しかった。
「変な所じゃないでしょうね?下手な所に連れて行かれて、
週刊誌のスクープにされるのは御免よ。」
「安心しな、そういう怪しい店じゃないから。それに、もし記者に
見つかっても、ロケハンで下見に来たって言えばいいんだ。」
「ズル賢いですね、プロデューサー。最初から考えているなんて
そういう、狡賢さ。好きですよ。うふふ」
「なんとでも言いやがれ、俺は律子…をもっと伸ばすんだよ。」


助手席のホールド性の良いバケットシートに身体を包み、律子は
嬉しそうに瞳を閉じた。
普段の仕事の移動なら、確かに後ろの座席の方がゆっくりできる。
でも、抱かれているように包まれている感覚で、隣に座っている
今の感覚の方が嬉しい。この人に身を任せているようで。


車は坂道を下り、街中を抜けて、港のほうへ進む。
人通りも車通りも少ないエリア。潮の匂いを感じて、ここもまだ
大都市横浜の一角である事を忘れさせられる。


車は店の横に着いた。私は携帯電話を取り出し、電話をかける。
「今から、一人女性を連れて行くけど、大丈夫かい?
ああ、それなら都合が良い。じゃ、車を店の横に置くよ。」
さてと、律子の背伸びには、良い舞台ができた。
あとは、どれだけ律子が背伸びしなくてもその世界に馴染めるか。
そういう成長を見つめられるのは、私の役得だな。


「店に着いたから、降りて。」
「えっ、店って…この地下に降りる階段の奥にある店…ですか?」
「そうだよ、私がよく顔出している店だ。安心しな。」
「ここって…バーですよね…こういう店入った事ないけど、
看板見れば判りますよ…それこそ、私が入るとヤバイんじゃ…」
「心配するな。客は誰も居ないって。まぁ、いつも客が居ないけど」
「いざとなったら、"ロケハンで下見に来てます"って誤魔化すの?」
「流石、事務所一の戦略家だな。よく判ってるな」
「もう、判ったわよ。階段が怖いから、手を握っててよね。」
「もちろん、喜んで。」
少し照れた顔で、律子が手を差し出す。
私は優しく律子の手を握って、ゆっくりと階段を降り始めた。
そして、古びた重いドアを開ける。
店の中は控えめの照明に、静かに流れるJazz。
サラヴォーンのサマータイムは、けだるい様に感じるが、
カウンターでくつろぐ時間を過ごすには良い歌だ。
さり気なく、椅子を引いては律子を座らせる。
「あ、あの、こういう見せ、私初めてだから…って、判ってます?
私、ま…」
私は、律子が慌てているのを制した。
「誰だって、最初の時はある。私が連れてきたんだ。私に任せろ。」
慌ててしまった自分を恥ずかしそうにしている律子が、可愛らしい。
「マスター、彼女にシンデレラを。私は…セントクレメンツで。」
「珍しいね、いつもの奴じゃないなんて、初めてじゃないのか。」
「今日はほら…」
チラッと律子に視線を移す。律子は、こういう店が初めてで、いつもと
ちがい、緊張している。いつもの度胸のある律子とは思えない。
店の雰囲気に呑まれたのか…ま、可愛いものだ。
「そういう事かい。お嬢さん、緊張しなくても良いよ。ここは気楽に
時間を過ごす場所だから。」
恰幅の良いマスターは低く優しい声で、律子に諭した。


カウンターの向こう側にある数えきれないほどの酒の瓶に私は
圧倒されている。
「プロデューサーって、こういう店、慣れているんですか?」
「慣れているというか…こういう所で静かに飲むのが好きなんだよ」
「てっきり、いつも社長とキャバクラで騒いでるものかと」
「接待とか付き合いでは、そういう店も選ぶけどな。でもな、酒を
傾けながら、音楽を聴いて、時間を過ごす…そういう"ひととき"って
良いものだと思わないか。酒に限らず、紅茶とかでも。心安らげて。」
「確かにそうですね…今、流れている歌、しっとりと心穏やかにされて
なんか…そうか、この前、連れて行かれたライブハウスのって…」
「こういう風に、安らぎも与えられる歌を歌えるようにと、勉強させる
つもりだったんだが…ま、色々と忙しくて、眠ってしまったんだろう。」
「うぅ、恥ずかしいです。今となって思えば…」
「ま、知らなかった事を理解できて、収穫が大きいだろう」
「まだまだ、プロデューサーの足元にも及びません。私、いかに自分を
売り込む事ばかりで、自分を磨く事忘れてました。」
「でも、現にこうやって、自分を磨いているだろう。それで十分さ。
目の前で成長してるのが判っただけでもな。」
カウンターの向こう側で、マスターがカクテルグラスを差し出した。
そして、シェーカーを振り始める。


目の前に差し出されたカクテルグラス。
シェーカーを振るリズミカルな音が心地良い。特別にその姿がカッコ
いいという訳でないのに。
そして私の目の前でカクテルグラスへ、きらびやかに注ぎ込まれる。
「シンデレラです。どうぞ」
そして引き続いて、タンブラーの中へ、カップで次々と液体を量っては
注ぎ込んでは、細長いスプーンが静かに音を立てず、掻き回されてる。
「セントクレメントです。どうぞ」
プロデューサーの前に、タンブラーが差し出された。
そして、プロデューサーはグラスを何気に掴んでは、私の方へ…
この情況は、乾杯するのよね…
私、緊張している。こんな雰囲気。いつもの収録の時の雰囲気と違う。
ライバルや、競合相手と戦っているんじゃない。
自分と戦ってる…大人になる為に踏み込む為に…
軽くグラスを当てるつもりだったけど、プロデューサーが先に軽く
あててくれた。それって、大人の余裕って奴?なんか悔しい。
だったら、飲み干してやる…
カクテルグラスを口に付ける。初めてのお酒をこんなに緊張するなんて。
…って、あれ、飲みやすい。
「美味しい…!」
「マスターの腕が良いからな。」
「カクテルのチョイスが良いんですよ。飲みやすいでしょう。」
「緊張してて、損したなって感じね。プロデューサー、こうなったら
ここはお任せします。」
「無理しないで任せるのは、確かに正解だな。自分の時と比べれば…」
プロデューサーは苦笑いしてた。
「そういう失敗もあったから、成長もできたんじゃないのかい。
成功も、失敗も大事な成長の材料ですから…」
さり気なく、マスターが乾き物のつまみ類を盛った小皿を差し出した。
「確かに違いない…」
プロデューサーが遠い目で、カウンターの後ろに並んでいる、
数えきれない酒瓶を見つめてる。


「ほんと、こんなところに連れて来られるなんて、想定外ね。」
「そういう格好で食事に連れて行ければ、こういう店も有りだ。
ま、大人に近付いている年齢だし、少し背伸びさせてやるのも
良いかなってね。」
「まっ、確かに背伸び…させてもらえるのは嬉しいわよ。」
恥ずかしそうにしている律子を、グラス傾けながら眺められるのは
想定外だ。
もう少し、度胸据わってるものかと思ってたけど。
やっぱり可愛いなと、思う。
緊張して、さっき律子は一気にカクテルグラスを煽ったようだ。
「マスター、彼女に今度はプッシーキャットを。」
「カクテルの名前どうりだね。」
「私はコレを飲み干したら、サラトガクーラーを」