「6月23日10:45pm」

車はマンションについて、エレベーターに乗り込む。まだ二人
言葉を交わさない。
律子が部屋の鍵を開けて、扉を開ける。
玄関に入って、私は扉を急いで閉める。


「どういうつもりで、あんなものを…」
「約束してくれたじゃないですか、コンビニで好きなものをと」
「そりゃ、言ったよ。じゃ、何で旅行なんだよ。それも二人分って」
「旅行って、最低開催人数を満たさないと、その日に申し込んだ分は
開催できないんです。それで、その旅行の最低開催人数が2名だから、
プロデューサーと一緒に申し込んだんです。」
「じゃ、なんで、私の名前なんだよ。」
「一緒に行きたいからです…はっ」
「え゛っ?」
「…一緒に美味しい料理食べるだけじゃなくて、一緒に旅行も
したかったんです…」
恥ずかしそうに、律子が目線を伏せて話している。
「大好きなプロデューサーと…」
何か、か細い声でぼそぼそと言ったようだが、私には聞こえなかった。
恥ずかしそうに、律子がもじもじしている姿しか、今の私には理解
できなかった。
「そりゃ、こんなやり方じゃ唐突過ぎて、怒るのも当然だけど…
でも、食べたいものをって言われて、あなたと一緒に本場の美味しい
料理を食べたいって、思ったら…
確かに、子供っぽいわね、こんな短絡なアイデア…」
いつもの冷静沈着な切れ者の律子じゃない、感情を抑えきれない少女の
律子が目の前にいる。
我慢できずに涙があふれ出ている。
こんな律子を見た事はない。しっかり者な律子とばかり思っていたけど
こんな夢見がちな少女の律子を私は見ていなかった。
本当に律子の事を見ていたんだろうか…と。
もっと、律子の事、見つめてやれなかったのかと。
律子の事、好きだと思ってても、まだ自分も甘い。
「調子に乗りすぎて、やりすぎましたね。それ、キャンセルします。
キャンセル料は私が出します。すみませんでした、プロデューサー」
無理して、笑い顔を見せている。それでも、まだ律子のほほを流れる
涙は止まらない。
コンビニで受取ったチケットを見つめてみた。
8月24日から、韓国フリーパック3泊4日の日程…
まだ、仕事の予定がキッチリと埋まってない時期だ。しっかりと、
そこまで考えていたんだ。
ただの思い付きで無く、考えていたんだ。仕事の事も私に配慮して…
そんな律子が、無性にいとおしくなる。


「最後の高校での夏休みで、長期休暇なんて、この先無いだろう。
だったら、ちゃんと夏休みらしく過ごせるような思い出代わりに
夏休みの旅行させてやりたいな。仕事兼ねる事になるけどな。
それでも良いか?韓国での芸能市場調査の仕事だけどな。」
「それって…」
「仕事の予定入れるぞ。夏休みだからって、他の予定は入れるなよ。」
「判りました、プロデューサー」
律子はきょとんとした表情だったが、すぐに把握したようだ。
「まったく、うまく律子に嵌められたようで、一発ひっぱたたいて
やらないと、気がおさまらないぐらいだ。」
「そうですよね…覚悟してます。」
律子が申し訳なさそうな顔をしている。
「じゃ、目をつぶってろ」
叩かれる事を覚悟した律子は歯を食いしばっている…
(ほんと、律儀だよな…)
私は手を上げる事無く、ゆっくりと律子に近づいて、そっと唇を
重ねようとした…
いざとなると、緊張する。今まで、律子が好きだという気持ちを
自分を抑えてきたのに。いくらなんでも、仕事上のパートナーであり、
まだ、高校生じゃないか…と自分に言い聞かせてたのに、今の自分を
押さえきれなく、律子を抱きしめたくなる…


その時、目の前で、律子が目を開いた。
もう少しで、唇が…という至近距離で…
「プロデューサー…どういうつもりですか…」
目の前でキッときつい目つきで、私を律子が睨み返す。
「そりゃ、私が悪かったからひっぱ叩かれて当然の事でしたよ。
でも、それにかこつけて、何をするつもりだったんですか…
最低です、今まで信頼してた私がバカですよ。あなたの事を本気で
好きだったと思ってた気持ちが無駄でしたね…」
「す、すまん。で、でもな、俺だって、律子の事が好きで…」
「言い訳聞きたくありません、私がひっぱ叩く立場ですよね。」
「ん、そうだな。こんな自分の邪な気持ちを察しられてれば。」
律子は鬼のような形相で、こっちを睨み付けて、手のひらを挙げた。
「プロデューサーこそ、目をつぶってください。」
私は覚悟した、律子の信頼も、気持ちも、もう明日からの仕事も…
目をつぶって、後悔の念にさいなまれた。


「さっきもそうだけど、ひっかかりやすいんですね…」
(えっ…)
声を出そうと思った瞬間、唇に柔らかい感触が…
目を開ければ、目の前に目を閉じている律子が間近に…
頭の中が真っ白に…
何秒だろう、その感覚が続いてる。ほんの数秒が何時間にも感じる。
そっと、唇から柔らかい感触が消えると同時に、律子が少し離れ、
目を開いた。
「キスしてる時に目を開けるなんて…」
「って、り、律子…」
「憧れだったんです。つま先立ちでキスするの…」
「つま先立ちで…って、そんな小説…あれ?なんか記憶が…?」
「覚えてたんですね、あの時の…」
目の前で、恥ずかしそうに照れている少女がいる。目の前にいるのは
確かに律子だけど。
「さ、要件も話も終ったでしょう。余計な話に尾ひれがつかない内に
プロデューサーは帰ってください…」
嬉しそうに、そして恥ずかしそうな声で律子が喋りながら、私の背中を
押した。
私はその勢いに押されて、無意識にドアを開けて、玄関を出た。
「それじゃ、プロデューサー、明日の仕事お願いしますね。」
にっこりと微笑む律子の顔に呆然とする。さっきまでの時間は…?
「ああ、明日、事務所でな…」
それを聞いて、律子は玄関のドアを閉めて、ガチャンと鍵をかけた音が
マンションの廊下に響いた。


エレベーターを一人で降りていく。
「つまり、律子も…好きだって事で、いいのか?」
想定外の事で、頭の中が混乱してる。
運転席に座って、ハンドルを握って考えた…
「好きなんだよな…お互いに…」
キーを回して、エンジンをかける。
低く響くエキゾーストを残して、街中へ走り出す。
「とりあえず、8月…仕事、するぞ。ずっと二人で…」